母校について of 壱岐高校同窓会 最新

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祝 第17回長崎県立壱岐高等学校東京同窓会総会

壱岐高等学校長 廣瀬 典治

こころふるさと「壱岐」に想いを馳せ、母校「壱岐高校」の絆のもと、本日第17回壱岐高等学校東京同窓会総会が御盛会に開催されますこと、心からお慶び申し上げます。
東京同窓会の皆様方には、平素から本校の教育推進に御理解、御支援を賜り、心から感謝申し上げます。

母校壱岐高等学校は明治42年創立以来100年の時を刻み、その間壱岐島の最高学府として、個性豊かで優秀な多くの人材を輩出して参りました。壱岐島内はもとより国の内外のおいて活躍しておられる本校同窓会の皆様方に敬意を表する次第であります。
はじめに、本校の現況報告をさせていただきたいと存じます。
平成20年度、県高校総合体育大会におきまして、陸上部:男子200M2位、男子円盤投げ5位、男子ソフトテニス部:個人ペア5位、柔道部:個人男子100kg超級3位と北九州大会やインターハイへ駒を進めております。また、平成19年度の進路実績は、就職率100%をここ数年堅持し、公務員合格21名と検討をしております。進学につきましては、国公立大学では、京都大学、大阪大学、神戸大学、九州大学等合格者57名を数え、早稲田大学、青山学院大学、同志社大学、立命館大学、西南学院大学等有名私立大学にも多くの生徒が合格し、それぞれの夢を実現すべく、それぞれの道へと逞しく巣立っていきました。
平成15年度からは導入された「離島留学制度」による「原の辻歴史文化コース」も6年目を迎え、島内外から集まった「歴史学専攻」と「中国専攻」の生徒28名が、それぞれの専門分野を軸に、国際人としての素養を培っております。平成19年度には、「中国語専攻」第1期生が晴れて卒業いたしました。内3名が上海外国語大学へ合格を果たし、夢実現へ向けて海を渡りました。
郷ノ浦港を一望できる喜応寺が丘に立つ、青春の最高のステージ『母校壱岐高校』で、皆様方の後輩、全校生徒684名は、先輩方の続くべく、校則「自律、明朗、友愛」の精神のもと、原の辻遺跡をイメージし新築成った学舎で、日々「分武両道」をめざし、自己実現へ向けて頑張っております。

本校は、平成21年度には創立100周年を記念すべく大きな節目を迎えます。これも偏に同窓会の皆様や地域の方々の温かい御理解、御支援の賜と心から感謝申し上げます。
現在、平成21年10月3日(土)の記念式典の準備に、同窓会の先輩方、生徒、職員一丸となって取り掛かっているところです。
今更ながら「長崎県壱岐高等学校」の歴史と伝統を実感いたしている次第であります。記念事業推進に際しましては、今度とも御支援、御教示を賜りますようお願い申し上げます。

最後になりましたが、皆様方の御期待に応えられるよう、師弟同行のもと、更なる壱岐高等学校発展のため一層の精進をお誓い申し上げます。貴会の今後益々の御発展と、皆様方の御健闘、御多幸をお祈り申し上げ御挨拶といたします。
平成20年7月26日

長崎県立壱岐高等学校校長 廣瀬典治

母校について

校史

壱岐高物語・その歩み

1909年・・今から90年前、壱岐高校は県立中学猶興館壱岐分校としてその輝かしい第一歩をふみだした。
1912年・・猶興館壱岐分校から独立開学、1914年(大正3年)には第一回生として37名がこの学び舎を巣立ちました。
1918年・・寄宿舎「玄海寮」落成。寮歌も誕生し、その後施設・設備の充実期を迎えます。
1922年・・県立壱岐高等女学校も誕生。いよいよ本格的な女子教育も始まり、島内における本格的な男女中等教育の場が保障いきました。

  • 昭和に入ると壱岐中や高女にも戦争の影が忍び寄ります。
  • 1943年(昭和18年)、いよいよ学徒動員により当時、高女3、4年生は大村へ動員されることになりました。

1948年・・壱岐中学は新たに壱岐第一高等学校として、また壱岐高等女学校は壱岐第二高等学校として改編されました。
     そしてさらに同年11月、両校は新制壱岐高等学校として統廃合され、新たな歩みを始めたのです。

(明治編):壱岐島明治文化史より抜粋

壱岐中学誕生秘話

壱岐郡会は県立猶興館中学壱岐分校設置の場所として、中央説と南部説が七対七で対立した。議長牧山猪七氏は香椎村(いわゆる中央説の人物)の人であったが大局的に考えて南部説をとった。明治41年(1908)9月の事であった。明治42年4月開校、分館主任として小笹憲氏が平戸中学からきて、同44年9月には独立決定し、翌45年(‘12)4月に長崎県立壱岐中学校として発足した。

■明治初期の壱岐の教育実態
向学心が低い。それは民度(学ぶことへの知的好奇心)が低く、文教の目的がわかっていない。小学校の授業料は、約1円50銭。教育費は官の補助はあったけれど、一般は税として地租雑税の附加税として加税されていた。教場は寺院を借りたものも、女子の不就学の多さ、理由は牧牛と耕作でクサカイとして路傍の草生地に畜牛を引き歩いて飼う慣習があった。昼間家業のため夜学が盛んで、ほとんどの学校が夜学を開放している。

日清戦争の頃
一般国民は直接出征の体験から、少なくとも手紙を書ける程度には教育を受けなければと考えるようになり、婦女子もまた銃後から戦地への通信には事欠かないくらいまでの認識を深めるために、学校教育就学、出席に一大発展を画するに至った。

日露戦争の頃
壱岐郡の全学校を網羅する各種の研究機関ができて研究活動が活発に展開されることになった。国語研究会や低学年、中学年、高等年研究会など、従来は教師の間にも検定派(中央の教育推進派)、師範出身者(いわゆる教育畑出身者、甲種講習出身者(独学で教員資格を取った者)などの派閥があり対立があったが、これによってその弊風を一掃した。

壱岐教育王国への布石
明治の末ごろから各学校では自発的に、青年の修養向上に乗りだした。毎週一回程度の夜学会を始めた。修養に関する読書、珠算など実用的で身近な学習が主であった。各学校内で、あるいは小地域で児童作品の展示会を開催する風も盛んになった。


初代
梅田 勝
第2代
後藤 義光
第3代
鴇田 忠正
第4代
中野 久雄
第5代
豊増 大吉郎
第6代
平山 多馬喜
第7代
川島 亘
第8代
背山 誓?
第9代
若浦 重雄
第10代
西村 進
初代
梅田 勝
第2代
後藤 義光
第3代
鴇田 忠正
第4代
中野 久雄
第5代
豊増 大吉郎
第6代
平山 多馬喜
第7代
川島 亘
第8代
背山 誓?
第9代
若浦 重雄
第10代
西村 進

旧制壱岐中学の思い出

旧制壱岐中学の思い出

■旧制中学校ってどんな学校?
【男子高等普通教育の旧制中】(雪州スケッチNo.6から転載)
明治の「教育令」制定以降、旧制中には全国統一の教育課程(何をどのように教えるか)の基準がなく、それぞれの中学校で独自の教育がなされていました。このような実態のもとでの教育目標はおおよそ「平均的な国民としての教育と人格を育むこと」に重点がおかれていたようです。ところが明治二十年代以降その状況は大きく動きます。それは「小学校教育の普及発達による就学率の向上」さらに「大正デモクラシーの浸透による国民の知識欲の向上」などの公教育の大衆化の進展によるものでした。このため従来の旧制中の教育内容そのものも底上げが求められ、旧制中は「男子高等普通教育の場」として国家的改善の試みが図られていくことになりました。やがて昭和に入り、ファシズムが台頭するなか旧制中学の学校数はさらに急増し何れも国家主義的色彩の強いものへと変貌していったのです。

■入学試験はどのように行われていたのか?
学科の筆記試験がベースではあったが、学校増加にともなって昭和の一時期、小学校の内申書を基礎とする人物考査が実施され好評を博した。 しかし、やがてこれも客観性に欠けるということで行詰り、再度選抜方法に改正された。ちなみに人物考査とは口頭試験であった。

■どんな教科書でどんな授業を受けてたの?
中等教科書はすべて国定化された。軍事教育については大正十四年より「陸軍現役将校学校配属令」という法律ができ、中学校、高等女学校ともに教練の指導に現役将校がつき、授業の一環として週3-5時間ほど教練が行われた。教科の中心は英、数、国漢文であり、特に高女は家政系統の実学、さまざまな実習に重きがおかれていたようである。教育方法としては大正期の全国的な改革運動が注目される。まさの壱岐が「教育王国、壱岐」と呼ばれた時期でもある。(ちなみに壱岐の小学校では東京の成城学園をモデルにした新たな教育実践が試されていた)部活は、柔剣道、野球、庭球、陸上競技や水泳・ボートなど、また文化部では弁論、図書、博物、詩吟等が盛んであった。
【注】:青鞜(Bluestocking)1750年頃、ロンドンのモンテーギュ夫人らのクラブの花形、植物学者R.Stilingfleetが黒い絹の靴下の代わりに青い毛糸の靴下をはいていたことから、その集まりの名となり、さらに文芸趣味や学識があり、或いはこれをてらう婦人たちの呼び名となった

このたび、恋川 正(こいがわ・まさし)氏のご厚意によりにより、氏が永く保管保存されていた玄海寮の看板が、90周年を記念して本校の校史資料室『喜応台』に寄贈いただきました。この看板は、玄海寮が誕生した1918年(大正7年)より、昭和30年代の解体時期までその場所を一度も変わることがなく、81年という永きにわたって正面玄関に飾られていたものです。ちなみにこの大正7年は、シベリア出兵の影響で富山を中心に米騒動が起こった年でもありました。今回の資料収集の中でも、まさに本校のオリジナルな一級品の資料といえます。

壱岐高等女学校の思い出

壱岐高等女学校の思い出

大正9年4月郡立として誕生した壱岐高女は当時の生徒の向学心と地元の女子教育熱の高まりのより大正11年4月県立移管を果たし、27年間の高女時代の幕が開かれたのである。 高等女学校ってどんな学校?

■壱岐高等女学校の教育【良妻賢母の高女】
高等女学校は、明治三十二年の高等女学校令により全国的な「女子の高等普通教育」機関として設置が公式に認められましたが、実はこの誕生にも大きな時代的背景が潜んでいました。当時政府は、日清戦争直後の講和条約締結による外国人との内地雑居解禁での国内の風紀の乱れを危惧し、特に女性に関しては「一家の主婦となって良妻賢母たることがすなわち女子の天賦である」という見識を抱いていたのです。したがって、この高等女学校構想は一挙に全国に広げられたのです。しかし、この高女も、大正から昭和初期の『青鞜』(セイトウ)に象徴されるフェミニズムの流れや民本主義を背景とする婦人開放運動、それらに刺激されたかのように全国に広がった女子教育の体質改善を求める婦人運動の高揚などにより、女子の高等普通教育機関として機能始めたかのように思われました。しかしそれもつかの間の、その後の強力な軍事統制による家族国家觀の堅持のよって、高女はあくまでも良妻賢母としての家を守る女性の育成という国家目標を背負ったまま、戦争の惨禍をむかえたのです。やがて終戦後、別々の歩みをたどってきたこれらの旧制中と高等女学校は、教育民主化のもとで、

(1)中等教育については中学校と高等女学校の教育水準をそろえる。
(2)男女共学を推進すること等の難問を克服しながら統廃合、そして今、壱岐中学と壱岐高女のスピリッツは、わが壱岐高等学校の推進力として間違いなく息ついているのです。

入学試験はどのように行われていたのか?
どんな教科書でどんな授業を受けてたの?

注】:青鞜(Bluestocking)1750年頃、ロンドンのモンテーギュ夫人らのクラブの花形、植物学者R.Stilingfleetが黒い絹の靴下の代わりに青い毛糸の靴下をはいていたことから、その集まりの名となり、さらに文芸趣味や学識があり、或いはこれをてらう婦人たちの呼び名となった

■【在校中の思い出】 高女第二十六回卒 赤 木 佳 子
創立90周年おめでとうございます。私が希望に満ちて、憧れの高女に入学したのは昭和19年春でした。卒業が昭和23年春ですから、史上最大の激動の時代と言えましょう。入学した年は太平洋戦争の真っ只中、軍国主義一辺倒で、夏には戦局が悪化して、私達にも学徒動員令が公布され、本土は米軍による空爆がエスカレート(主に空の要塞と呼ばれたボーイングB-29)日本としても壮烈極まる飛行機の体当たりによる神風特別攻撃隊が編成され、本土決戦に備えましたが、20年夏には敗戦やむなきに居たり、終戦を迎え、占領下の民主政策のもとに学制改革が行われ、かっては想像もつかなかった大きな戸惑いと不安の男女共学が実施され、あらゆる面で計り知れない大きな変動を記録した時代でした。私の記憶を辿ってのその頃の思い出を綴ってみましょう。入学試験も口頭試問と体力検査が主だったようです。入学できた喜び、初めての友達との出会い、何事も新しいことずくめの楽しい学園生活に胸をふくらませたものでした。オカッパ髪は許されず、短い髪を二つに結んで、下を向くと痛くて、上を向いたまま校門を出ると直ぐに取り外したものでた。スカートは廃止され、ヘチマカラーにモンペを着用、藁草履といったスタイルでした。その頃から戦局は悪化し、学徒動員で、3,4年の上級生は大村・川棚へと軍需生産のために出動し、後で聞くところによると、銃後も第一戦も変わらぬ悲壮極まりない、正に死を賭けた青春だったそうです。2年後には私達の番でした。それでも壱岐は未だ比較的のんびりしておりました。昭和19年秋には、たまたま、B-29が初山の山中に墜落し、燃え続けました。昭和20年になると、学校の教室の半分は、軍隊の宿舎となり、運動場も分捕られて授業もなくなり、防空壕掘りや、出征兵士の家の麦刈りや稲刈り等の農作業の奉仕に、慣れない仕事に耐え抜いてきたことは今でも忘れられません。 8月15日の昼に、重大放送があるとのことで、耳をそばだてて聞いたのが、後で終戦の詔勅の玉音放送だった事を知り、誰もが必勝を信じて頑張ってきただけに、そのショックは複雑なものありました。動員で苦労なさった先輩たちも帰り、校舎の兵隊さんも去り、静かな学舎となりましたが、毎日のように島外から、戦災や引揚の友達で教室も狭くなりました。新体制化、敵国語として排斥されていた英語も、教えられなかった外国の歌も、ハニホヘトに変わっていた音階もドレミに復活し、お粗末な紙にガリバン刷りの教科書でしたが、やっと平和が訪れました。とは言え、皆が衣食住では欠乏生活を強いられました。現在の飽食時代を誰が想像し得たでしょう。が然し、それなりに充実した4年間と受け止めております。 4年生になると、髪も、スカートも許され、楽しい学園生活の2学期になって男女共学、高校2年に編入するよう薦められました。そのまま4年を終えて専門学校に進学する人、家庭の都合や結婚のために各々学窓を巣立ち、約2割の人だけ高校に編入したことを後で知りました。私も随分悩んだ挙句、伯父をたよって洋裁学校へと進みました。縁あって壱岐に住み、一男一女の子供も各々壱岐高から大学を経て、長男の子供二人【孫】もいずれ壱岐高に進むべく、学業に勤しんで居ります。平成4年6月14日に、且っての高女(現武中)の東側の片隅に校歌を刻んだ記念碑建立の除幕式では、第一回卒の品川梅野様(現医師会長、品川晃一郎先生のご母堂様)と私(終回で26回卒)とで序幕を行い、その時の感激は良き思い出として残っております。今後益々の母校の発展を祈念して止みません。

■【在校時の思い出】 高女第十五回卒  福島 トク
天地の恵みいと深く自然の胸にはぐくまるの校歌、静けき丘に聳え立つその名も清き日進寮の寮歌にはぐくまれながら、楽しかった高女四年間を追憶し感無量です。昭和八年五十八名の友達と憧れの高女に入学しました。爛漫と咲いている桜。初めて見た二階のある校舎、広いグランドは私の夢を大きくふくらませ、入学式に飾られた梅の花の校旗の美しさは今でも深く心に残ります。この年の十二月二十三日午前六時三十九分天皇陛下がご誕生になり、日の丸の旗を振りながらお祝いの歌を歌い寮でもお赤飯を頂きました。静かに明くる夜のとばり、瑞雲こむる大八洲朝日ただ差すこの国に、今よろこびの声満ちて日嗣の皇子は生まれましぬ。忘れ得ぬ一こまです。昭和八年にはチャイムはなく、全校すべての合図は給仕さんが鐘を振りながら知らせてくださり、寮でも相撲に使われる拍子木のカチカチと澄んだ音で一日の楽しさが過ぎました。教室は普通教室が四つ、特別教室が講堂を入れて五つ、更衣室と理科の準備室は別で一年から四年まで一学年一クラスだったのでどうにかまに合ったのでしょう。職員室も先生方が十名だったので普通教室の半分ぐらいの広さでした。夢一杯の校舎で私は胸をはって懸命に勉強しました。忘れられないのは恩師とクラスメートの生活と毎日の勉強です。入学式は刈込先生で卒業証書は高野校長先生に頂きました。教頭の篠崎先生に日本画と書道をご指導いただき、美しい立ち葵を書く時、木の枠に絹の布を貼り今でも忘れません。数学と理科の山川先生のいかの夜光性の実験のとき、いかが恥ずかしがったのか墨をまき散らしみんなどっと笑ったことも思い出に残るものです。四年間担任だった乙祥先生の国語の時間には、時は暮れ行く春よりもまだ短きはなかるらん。とむづかしい言葉が毎時間出てきます。でもお父さんのような何でも話せる先生でした。小木曽先生のロングロングアゴーを歌いながら英語劇、小川先生の一文字の乱れの長刀体操、高見沢先生のお料理実習の田毎の月、どの時間も楽しいお勉強でした。先生方の深い深い日々のご指導が自信のない私を、各教科を通して培われた教育の尊さに感謝しています。高女四年間の思い出は私の宝です。楽しかった高女の思い出は毎年五月二十日に開かれるクラス会に続いています。それはそれは楽しいクラス会です。美味しい食事をつつきながら心は三つ網の乙女にかえり楽しかった高女のこと、健康だった一年、孫のこと等々、時の立つのも忘れてお話が続きます。毎年開かれる継続の美しさは十五回生の誇りです。私達高女卒業生の尊い思い出を永遠につなぐために、美しく流れるような深見鉄子先生の文字による平成四年建立の記念の碑は、刻まれた梅の花とともに何時までも高女卒業生の大切な心のよりどころと思います。

輝く九十周年  飛翔の母校  大いなるかな。

新制高等学校の発足

新制高等学校の発足

戦後の混乱期の壱岐高

帰らぬらぬ日々”新制高校の男女共学”
郷ノ浦町 米田尚太郎 (雪州スケッチNo.6から)

近頃NHKで、連続テレビ小説「かりん」が放送されて、高い視聴率を保っているようです。その予告を見たとき、壱岐でも昭和23年に、新制高校の男女共学が実施されたなあと、懐かしく思い出しました。今でこそ男女共学が普通になっていますが、以前は「男女七歳にして席を同じうせず」という諺どうりの学校教育が続けられていました。私たちが壱岐中学の生徒であった頃、今の武生水中学の所にあった女学校の運動会を、道路を隔てた崖の上の藪の中から、こっそり見物していた中学生が先生に見つかって、こっぴどく叱られたということがありました。また女学生にラブレターを出したことがばれて、家庭謹慎になった例もありました。

そんなふうでしたから、新制高校が男女共学になるということは、戦争に負けたことほどではなかったにしても、天地がひっくり返るような出来事だったのです。壱岐高校の沿革年表には、昭和23年11月、壱岐第一・第二高等学校統合、長崎県立壱岐高等学校開校・・・と、ただ一行の記載になっていますが、その陰には数多くのドラマが秘められています。その年は、私が壱岐第一高等学校の講師になったばかりの年でしたが、マッカーサー軍司令部から「新制高校は男女共学が望ましい」と言ってくるのは、命令であると受け止めて、忠実に守らなければいけないというのが常識でした。わずか三年前までは、一億玉砕の覚悟で戦った敵軍の司令部に、それ程従順であるとは、変われば変わるものだと驚くような世の中でした。

さて、両高校が合併されるのに先立って、打ち合わせのために合同職員会が必要でした。第一回目は、壱岐第二高校つまり旧壱岐高等女学校で開かれました。以前は立ち入ることを固く禁じられていた学校に、初めておおっぴらに入って行けたので、私には感慨深いものがありました。そのときの校舎は今はもうありませんが、玄関に入ってまず驚かされたのは、廊下の床板が、人影を写すほどに磨き上げられていたことです。さすがは女学校、良妻賢母を目指す生徒たちが、毎日毎日、きれいに洗った雑巾を固くしぼって、ていねいに拭きあげていたのでしょう。後日談になりますが、そのぴかぴかの廊下も、男子生徒が混じって掃除するようになると、幾日もたたないうちにつやを失ってしまいました。

合同職員会議は、理科教室で行われたのではなかったかと思います。正面の机には、両校の校長さんが互いに席をゆずり合いながら着席しました。一般職員は向かい合って二列に着席しました。そのとき、旧女学校の先生たちには、旧中学校の先生たちが、それぞれ一国一城の主のように、大変いかめしく見えたそうです。もちろん私などは、中学生に毛が生えたくらいに見えたと思います。また並んで座った二人の校長さんについては、第一高校の校長さんの方が、統合後の校長になるだろうと予想したそうですが、そのとうりになりました。合同職員会は、何回あったのか記憶がありません。そのことより、両校の全生徒が、初めて出会った日のことを書かねばなりません。

その日は、昭和二十三年十一月十日であったことが、私の年末回顧メモに書き残してあります。壱岐第二高等学校(旧壱岐高女)の職員生徒全員が、隊列を整えて、第一高等学校(旧壱岐中学校)の校門を入ってきました。女子生徒たちは、みなセーラー服にモンペをはき、三つ組みの髪を両肩にたらし、ズックの運動靴かぞうりをはいていました。今までは強い憧れを持ちながら無理に引き離されていた可憐な女子生徒たちが、公然と男子生徒ばかりの高校に乗り込んできたのです。男女共学の第一歩でした。対面式などあったはずですが、それは記憶になくて、初めて男女共学の教室で授業したときの光景が目に浮かびます。

新米教員の私は、ときめく胸をおさえて教室に入ってゆきました。男子生徒たちは明るい窓側に、女子生徒たちは廊下側に、机の間をせまく詰めて座っていましたので、床の中央部は広くあいていました。本心は近寄って座りたかったのでしょうが、てれくさがって、わざとそうしていたのだろうと思います。私も男子生徒の方に寄って立ち、うわずった声で授業を始めました。女子生徒の皆さんは無表情な顔で、黒板とノートだけに視線を向けて、おとなしく授業を受けていました。男子生徒の方には、ちらちらと女子の方を見ながら、うわの空で授業を受けている人がいました。たいていの教室がそんな状況であったらしく、学級によっては担任の先生が、机の列を男女交互に座らせて、男女のこだわりを取り除くように工夫したりしましたが、そこは遠いようで近いのが男女の仲、幾日もたたないうちに、正常な状態になりました。

男女共学になる前に、最も心配されていたことは、男女の能力差が大きいのをどうしようかということでしたが、同じ授業を受けていれば、男女の学力差はなくなることが、間もなく分かってきました。それから学校の配慮が足らなかったと思ったのは、トイレの使用法でした。女子生徒たちは友達と連れ立ってトイレに行き、交替に扉の前で番をする方法をとります。男子生徒たちは、各自ばらばらになって行きますので、女子生徒たちがぞろぞろとやってきますと、あわてて逃げ出すと言うようなことが、しょっちゅうおきていました。そうしているうちに、マッカーサー軍司令部の教育官から、「トイレの男女共学は望ましくない。」と言って来ました。それからは、男女の使用するトイレが区別されるようになったと思います。それから、もう一つの問題は、教師の学問的実力のことでした。旧女学校では、授業の内容が旧中学校より大分易しかったらしく、長く女学校の授業だけしてきた先生方の中には、男子生徒に満足を与えるような授業はしきらないと、弱音を吐く人もいました。

新学期の授業担当をどう決めたらよいかが、学校長の悩みであったようです。その心を察して、ある若い先生が、旧第二高校から来た先生の実力を、ひそかに生徒を使って試したと言う話を聞きました。その方法は、授業中に、まえもって用意した質問をさせ、先生がどんな答え方をしたかを報告させることでした。その調査をもとににして、その先生の実力に応じた配置がなっされたわけです。その事実を知ってか知らずか、旧第二高校の先生方は、学校長の側近の若い先生を恐れていました。両高校の統合直後には、机腰掛をはじめ、いろいろの備品の運搬作業が、主に生徒のてで行われました。授業が始まってからは、教室や設備の都合で、休み時間に二つの校舎の間を、走って移動することがしばしばありました。共学後の第1回文化祭は、盛り沢山になって一日では済まず、二日間に延長されました。その他、いろいろのことがありました。創立記念日は、十一月十日は区切りが悪いので、十一月一日にすることが、職員会で決められたりもしました。今回はこのくらいにしてペンをおきます。(1993年1月)