
|
 |
島の概要 |
|
|
|
|
壱岐は、福岡県と対馬の中間地点で玄海灘に面し、福岡県博多港から郷ノ浦港まで西北76km、佐賀県呼子港から印通寺港まで北26kmの位置にある。
壱岐島は南北約17km、東西約15km、総面積は138.39平方kmで、島としては全国で20番目に大きい島である。
壱岐本島と21の属島(有人島5、無人島16)からなる。
人口は34,127人(平成13年3月住基)。
壱岐四町は、平成16年3月1日に「壱岐市」として合併することになり、現在の4町は無くなって、新しい市が誕生します。
|
壱岐には芦辺町と石田町にまたがる丘陵を中心とした、今から約2200〜1700年前の弥生時代の大規模環濠集落で、「魏志倭人伝」に記載された「一支国」の王都である原の辻遺跡の他、県下で唯一の「くりぬき式家形石棺」である掛木古墳、壱岐の島の中央部に集中する百合畑古墳群など、多くの古墳が遺されている。
壱岐は大陸と日本の中間拠点としての地理的条件から、今まで幾重にも渡って外敵からの侵入を受けてきた。古くは唐・新羅の侵入に備えての最前基地となり、その後も新羅人による侵入、刀伊の賊の襲来、そして元冦・文永の役(1274)、弘安の役(1281)では、壊滅的な打撃をうけた。
元寇の役以降、暦応元年(1339)足利尊氏が、たくさんの死者の冥福と天下の安泰を祈るために、全国六十六州と壱岐・対馬の両島に一寺一塔の寺塔建立を命じたうちのひとつが安国寺である。
平戸の松浦鎮信の時代は、秀吉の九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いという一連の歴史的事件があった。天正19年(1591)豊臣秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に当たり、壱岐国勝本城(勝本町)の構築を平戸の松浦鎮信に命じている。これらを通して、平戸の松浦氏は戦国大名から近世大名への転換をし、幕藩体制のもとにその地位を確定していくことになった。その後、壱岐は朝鮮通信使の隣接地として利用され、近世の産業では鯨組(捕鯨業)はとりわけ大規模で、多くの鯨組の基地ができた。特に瀬戸の恵美須、勝本の田ノ浦は最高の漁業基地であった。
幕末期の壱岐は、異国船の警固に追われたが、その中心は勝本浦に設けられた押役所で、厳重な防備がなされた。慶応年間(1865〜68)に壱岐沖を通過した異国船は、毎年100を超えたが、攻撃を受けることもなく明治時代を迎えた。明治4年(1871)廃藩置県により、平戸県となるが、11月には新しく長崎県は成立し、壱岐は長崎県に所属した。
現在の壱岐はこれらの古墳や史跡と、イルカパークやゴルフ場などのレジャー施設、海水浴場など豊富な観光資源を生かした産業により、日本全国から多くの観光客が訪れる場所となっている。 |
 |
| 本サイトは壱岐高等学校東京同窓会ボランティアによって運営されています。営利目的のサイトではないため、ご質問苦情その他のメールに関して対応が遅れる場合がございますが、本サイトの性質をご勘案の上、ご理解頂ければ幸いです。 |
|
 |