「長崎県立壱岐高等学校東京同窓会」設立時を回顧して
初代会長 坂江博見
青雲の志を抱き、玄海に浮かぶ大八洲の一角を占める誇りに満ちた宝の島、壱岐を離れて、東京等首都圏に身を投じた幾多の我が壱岐高(旧制壱岐中・壱岐高女を含む)同窓は各界で功なり、名遂げた方々、或いは目下活躍中の新進気鋭等キラ星の如く、人材豊富である。又、歴史をたぐれば、今は亡き世界の電気王松永安左衛門先生を始め、壱岐が生んだ逸材として名を残し刻まれた方々も多い。私達後輩として、名声を得られた先輩を戴き誠に感謝にたえない。これら先輩の功績に対し、名を汚すことなく、その域をその目標として日々精進努力せねばならない。
さて、東京同窓会の前身的な会の集いは三十数年前に逆上る。壱岐中・壱岐高で戦後3年間ぐらい英語の教師として教鞭を取っていられた長島毅先生(吉田ハルエ先生と結婚=養子縁組・吉田毅先生)が高校の先生を辞められ、昭和25年に勇躍上京、貿易商を営まれるのを機に、昭和40年代に、都内近郊に居住する壱岐中・壱岐高女出身者に吉田夫妻が呼びかけ、壱岐中・壱岐高女出身者東京同窓会を設立し、爾来、昭和63年頃まで、品川居住の豊永観之氏(壱岐中22回卒)を会長を維持運営されてきた。日時、会場は概して、大久保清氏(壱岐中25回卒)経営の五反田スエヒロで毎年5月第三日曜日2時ごろから夜遅くまで借り切りでで開催、壱洲弁丸出し、放歌、放談、年に一度の何にも代え難い楽しみな集まりであった。私も東京勤務時は殆ど出席し、その模様を壱岐日報紙上にも発表したこともあった。本当に故郷を離れて暮らす者のみに去来する共通の卿愁感と言うべきか・・・・一時が万事ツーカーで通じ合える同郷の誼の、同床的感慨に浸ることが出来た。高卒組みは第6回卒まで参加していたようであった。
かくなる背景を経つつ、澎湃として、多くの後輩の諸氏から、東京同窓会の結成の機運は熟しているから、設立準備委員会を早急に構成してはとのご提案を得て、平成3年2月直ちにその準備に着手した。第2回卒坂江・第3回卒山内賢明、本土・第4回卒山内偉生・大久保裕光・浦川祐次郎・下條成自・第5回卒大杉一雄・第6回卒鎮守次郎。殿川茂第7回卒辻田茂・第8回卒柴山繁・等12名を以って設立準備委員会を設立せしめた。5〜6回の設立準備委員会の議を経て会則等設立総会開催日時等諸事万端怠りなく設立準備作業を完了へと、こぎ着けることができた。勿論、壱岐中・壱岐高女関係者全員を包含することのしたことは当然である。
このようにして、平成4年4月20日柳・銀杏の街路樹新緑鮮やかに萌え出ずる東京銀座の各界トップクラスの社交場として今尚名高い「公詢社」において、大先輩の作詩家でもあられる松坂東京雪州会会長、恩師吉田毅先生、(旧姓長島)等多数の関係来賓をお招きして、待望久しき壱岐高等学校東京同窓会の設立総会を盛大に開催することが出来た。そして、会則、人事案件等提案通り承認され、めでたく、長崎県立壱岐高等学校東京同窓会として独立した形態を整え、第一歩を踏み出したのである。
ここに早くも第8回の定期総会を迎えるに当り、また、当時を回顧し、感慨一入胸熱くなる思いで一杯である。戦中・戦後壱岐中・壱岐高を学舎として多感な思春期の6年間であったが、特に戦時下の勤労奉仕や、中でも、陸士・海兵・予科連へと鹿島発ちする先輩を郷ノ浦湾頭に見送り、未還の勇士、神国日本が勝つことのみを信じ、願い、夢見て戦果に散った先輩・・・・察するに涙なくしては語れない尊くも悲しい思いでの一齣である。
戦後は対馬高校との陸上、野球、テニス、ピンポン等の対抗交歓試合が明るい兆候を生み出し、両校間の意気高揚をもたらし、心技面充実への貢献度の役割を担っていたのではないか、と言う気がする。最後に、母校壱岐高の思い出を胸に抱きつつ、故郷「壱岐」の二文字を忘れず、同窓相互間はもとより、各界との交流を起点に、一層、和=輪を広げ、本会の益々の飛躍を願う次第である。 |