戦後の混乱期の壱岐高
帰らぬらぬ日々”新制高校の男女共学”
郷ノ浦町 米田尚太郎 (雪州スケッチNo.6から)
近頃NHKで、連続テレビ小説「かりん」が放送されて、高い視聴率を保っているようです。その予告を見たとき、壱岐でも昭和23年に、新制高校の男女共学が実施されたなあと、懐かしく思い出しました。今でこそ男女共学が普通になっていますが、以前は「男女七歳にして席を同じうせず」という諺どうりの学校教育が続けられていました。私たちが壱岐中学の生徒であった頃、今の武生水中学の所にあった女学校の運動会を、道路を隔てた崖の上の藪の中から、こっそり見物していた中学生が先生に見つかって、こっぴどく叱られたということがありました。また女学生にラブレターを出したことがばれて、家庭謹慎になった例もありました。
そんなふうでしたから、新制高校が男女共学になるということは、戦争に負けたことほどではなかったにしても、天地がひっくり返るような出来事だったのです。壱岐高校の沿革年表には、昭和23年11月、壱岐第一・第二高等学校統合、長崎県立壱岐高等学校開校・・・と、ただ一行の記載になっていますが、その陰には数多くのドラマが秘められています。その年は、私が壱岐第一高等学校の講師になったばかりの年でしたが、マッカーサー軍司令部から「新制高校は男女共学が望ましい」と言ってくるのは、命令であると受け止めて、忠実に守らなければいけないというのが常識でした。わずか三年前までは、一億玉砕の覚悟で戦った敵軍の司令部に、それ程従順であるとは、変われば変わるものだと驚くような世の中でした。
さて、両高校が合併されるのに先立って、打ち合わせのために合同職員会が必要でした。第一回目は、壱岐第二高校つまり旧壱岐高等女学校で開かれました。以前は立ち入ることを固く禁じられていた学校に、初めておおっぴらに入って行けたので、私には感慨深いものがありました。そのときの校舎は今はもうありませんが、玄関に入ってまず驚かされたのは、廊下の床板が、人影を写すほどに磨き上げられていたことです。さすがは女学校、良妻賢母を目指す生徒たちが、毎日毎日、きれいに洗った雑巾を固くしぼって、ていねいに拭きあげていたのでしょう。後日談になりますが、そのぴかぴかの廊下も、男子生徒が混じって掃除するようになると、幾日もたたないうちにつやを失ってしまいました。
合同職員会議は、理科教室で行われたのではなかったかと思います。正面の机には、両校の校長さんが互いに席をゆずり合いながら着席しました。一般職員は向かい合って二列に着席しました。そのとき、旧女学校の先生たちには、旧中学校の先生たちが、それぞれ一国一城の主のように、大変いかめしく見えたそうです。もちろん私などは、中学生に毛が生えたくらいに見えたと思います。また並んで座った二人の校長さんについては、第一高校の校長さんの方が、統合後の校長になるだろうと予想したそうですが、そのとうりになりました。合同職員会は、何回あったのか記憶がありません。そのことより、両校の全生徒が、初めて出会った日のことを書かねばなりません。
その日は、昭和二十三年十一月十日であったことが、私の年末回顧メモに書き残してあります。壱岐第二高等学校(旧壱岐高女)の職員生徒全員が、隊列を整えて、第一高等学校(旧壱岐中学校)の校門を入ってきました。女子生徒たちは、みなセーラー服にモンペをはき、三つ組みの髪を両肩にたらし、ズックの運動靴かぞうりをはいていました。今までは強い憧れを持ちながら無理に引き離されていた可憐な女子生徒たちが、公然と男子生徒ばかりの高校に乗り込んできたのです。男女共学の第一歩でした。対面式などあったはずですが、それは記憶になくて、初めて男女共学の教室で授業したときの光景が目に浮かびます。
新米教員の私は、ときめく胸をおさえて教室に入ってゆきました。男子生徒たちは明るい窓側に、女子生徒たちは廊下側に、机の間をせまく詰めて座っていましたので、床の中央部は広くあいていました。本心は近寄って座りたかったのでしょうが、てれくさがって、わざとそうしていたのだろうと思います。私も男子生徒の方に寄って立ち、うわずった声で授業を始めました。女子生徒の皆さんは無表情な顔で、黒板とノートだけに視線を向けて、おとなしく授業を受けていました。男子生徒の方には、ちらちらと女子の方を見ながら、うわの空で授業を受けている人がいました。たいていの教室がそんな状況であったらしく、学級によっては担任の先生が、机の列を男女交互に座らせて、男女のこだわりを取り除くように工夫したりしましたが、そこは遠いようで近いのが男女の仲、幾日もたたないうちに、正常な状態になりました。
男女共学になる前に、最も心配されていたことは、男女の能力差が大きいのをどうしようかということでしたが、同じ授業を受けていれば、男女の学力差はなくなることが、間もなく分かってきました。それから学校の配慮が足らなかったと思ったのは、トイレの使用法でした。女子生徒たちは友達と連れ立ってトイレに行き、交替に扉の前で番をする方法をとります。男子生徒たちは、各自ばらばらになって行きますので、女子生徒たちがぞろぞろとやってきますと、あわてて逃げ出すと言うようなことが、しょっちゅうおきていました。そうしているうちに、マッカーサー軍司令部の教育官から、「トイレの男女共学は望ましくない。」と言って来ました。それからは、男女の使用するトイレが区別されるようになったと思います。それから、もう一つの問題は、教師の学問的実力のことでした。旧女学校では、授業の内容が旧中学校より大分易しかったらしく、長く女学校の授業だけしてきた先生方の中には、男子生徒に満足を与えるような授業はしきらないと、弱音を吐く人もいました。
新学期の授業担当をどう決めたらよいかが、学校長の悩みであったようです。その心を察して、ある若い先生が、旧第二高校から来た先生の実力を、ひそかに生徒を使って試したと言う話を聞きました。その方法は、授業中に、まえもって用意した質問をさせ、先生がどんな答え方をしたかを報告させることでした。その調査をもとににして、その先生の実力に応じた配置がなっされたわけです。その事実を知ってか知らずか、旧第二高校の先生方は、学校長の側近の若い先生を恐れていました。両高校の統合直後には、机腰掛をはじめ、いろいろの備品の運搬作業が、主に生徒のてで行われました。授業が始まってからは、教室や設備の都合で、休み時間に二つの校舎の間を、走って移動することがしばしばありました。共学後の第1回文化祭は、盛り沢山になって一日では済まず、二日間に延長されました。その他、いろいろのことがありました。創立記念日は、十一月十日は区切りが悪いので、十一月一日にすることが、職員会で決められたりもしました。今回はこのくらいにしてペンをおきます。(1993年1月) |