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旧制壱岐中学の思い出

 旧制中学校ってどんな学校?
【男子高等普通教育の旧制中】(雪州スケッチNo.6から転載)

明治の「教育令」制定以降、旧制中には全国統一の教育課程(何をどのように教えるか)の基準がなく、それぞれの中学校で独自の教育がなされていました。 このような実態のもとでの教育目標はおおよそ「平均的な国民としての教育と人格を育むこと」に重点がおかれていたようです。ところが明治二十年代以降その状況は大きく動きます。 それは「小学校教育の普及発達による就学率の向上」さらに「大正デモクラシーの浸透による国民の知識欲の向上」などの公教育の大衆化の進展によるものでした。 このため従来の旧制中の教育内容そのものも底上げが求められ、旧制中は「男子高等普通教育の場」として国家的改善の試みが図られていくことになりました。やがて昭和に入り、ファシズムが台頭するなか旧制中学の学校数はさらに急増し何れも国家主義的色彩の強いものへと変貌していったのです。


 入学試験はどのように行われていたのか?

学科の筆記試験がベースではあったが、学校増加にともなって昭和の一時期、小学校の内申書を基礎とする人物考査が実施され好評を博した。 しかし、やがてこれも客観性に欠けるということで行詰り、再度選抜方法に改正された。ちなみに人物考査とは口頭試験であった。


 どんな教科書でどんな授業を受けてたの?

中等教科書はすべて国定化された。軍事教育については大正十四年より「陸軍現役将校学校配属令」という法律ができ、中学校、高等女学校ともに教練の指導に現役将校がつき、授業の一環として週3−5時間ほど教練が行われた。 教科の中心は英、数、国漢文であり、特に高女は家政系統の実学、さまざまな実習に重きがおかれていたようである。 教育方法としては大正期の全国的な改革運動が注目される。まさの壱岐が「教育王国、壱岐」と呼ばれた時期でもある。 (ちなみに壱岐の小学校では東京の成城学園をモデルにした新たな教育実践が試されていた)部活は、柔剣道、野球、庭球、 陸上競技や水泳・ボートなど、また文化部では弁論、図書、博物、詩吟等が盛んであった。 【注】:青鞜(Bluestocking)1750年頃、ロンドンのモンテーギュ夫人らのクラブの花形、植物学者R.Stilingfleetが黒い絹の靴下の代わりに青い毛糸の靴下をはいていたことから、その集まりの名となり、さらに文芸趣味や学識があり、或いはこれをてらう婦人たちの呼び名となった


このたび、恋川 正(こいがわ・まさし)氏のご厚意によりにより、氏が永く保管保存されていた玄海寮の看板が、90周年を記念して本校の校史資料室『喜応台』に寄贈いただきました。この看板は、玄海寮が誕生した1918年(大正7年)より、昭和30年代の解体時期までその場所を一度も変わることがなく、81年という永きにわたって正面玄関に飾られていたものです。ちなみにこの大正7年は、シベリア出兵の影響で富山を中心に米騒動が起こった年でもありました。今回の資料収集の中でも、まさに本校のオリジナルな一級品の資料といえます。


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