大正9年4月郡立として誕生した壱岐高女は当時の生徒の向学心と地元の女子教育熱の高まりのより大正11年4月県立移管を果たし、27年間の高女時代の幕が開かれたのである。
高等女学校ってどんな学校?
壱岐高等女学校の教育【良妻賢母の高女】
高等女学校は、明治三十二年の高等女学校令により全国的な「女子の高等普通教育」機関として設置が公式に認められましたが、実はこの誕生にも大きな時代的背景が潜んでいました。当時政府は、日清戦争直後の講和条約締結による外国人との内地雑居解禁での国内の風紀の乱れを危惧し、特に女性に関しては「一家の主婦となって良妻賢母たることがすなわち女子の天賦である」という見識を抱いていたのです。
したがって、この高等女学校構想は一挙に全国に広げられたのです。しかし、この高女も、大正から昭和初期の『青鞜』(セイトウ)に象徴されるフェミニズムの流れや民本主義を背景とする婦人開放運動、それらに刺激されたかのように全国に広がった女子教育の体質改善を求める婦人運動の高揚などにより、女子の高等普通教育機関として機能始めたかのように思われました。
しかしそれもつかの間の、その後の強力な軍事統制による家族国家觀の堅持のよって、高女はあくまでも良妻賢母としての家を守る女性の育成という国家目標を背負ったまま、戦争の惨禍をむかえたのです。やがて終戦後、別々の歩みをたどってきたこれらの旧制中と高等女学校は、教育民主化のもとで、
(1)中等教育については中学校と高等女学校の教育水準をそろえる。
(2)男女共学を推進すること等の難問を克服しながら統廃合、そして今、壱岐中学と壱岐高女のスピリッツは、わが壱岐高等学校の推進力として間違いなく息ついているのです。
入学試験はどのように行われていたのか?
どんな教科書でどんな授業を受けてたの?
【注】:青鞜(Bluestocking)1750年頃、ロンドンのモンテーギュ夫人らのクラブの花形、植物学者R.Stilingfleetが黒い絹の靴下の代わりに青い毛糸の靴下をはいていたことから、その集まりの名となり、さらに文芸趣味や学識があり、或いはこれをてらう婦人たちの呼び名となった
【在校中の思い出】 高女第二十六回卒 赤 木 佳 子
創立90周年おめでとうございます。私が希望に満ちて、憧れの高女に入学したのは昭和19年春でした。卒業が昭和23年春ですから、史上最大の激動の時代と言えましょう。入学した年は太平洋戦争の真っ只中、軍国主義一辺倒で、夏には戦局が悪化して、私達にも学徒動員令が公布され、本土は米軍による空爆がエスカレート(主に空の要塞と呼ばれたボーイングB−29)日本としても壮烈極まる飛行機の体当たりによる神風特別攻撃隊が編成され、本土決戦に備えましたが、20年夏には敗戦やむなきに居たり、終戦を迎え、占領下の民主政策のもとに学制改革が行われ、かっては想像もつかなかった大きな戸惑いと不安の男女共学が実施され、あらゆる面で計り知れない大きな変動を記録した時代でした。
私の記憶を辿ってのその頃の思い出を綴ってみましょう。入学試験も口頭試問と体力検査が主だったようです。入学できた喜び、初めての友達との出会い、何事も新しいことずくめの楽しい学園生活に胸をふくらませたものでした。オカッパ髪は許されず、短い髪を二つに結んで、下を向くと痛くて、上を向いたまま校門を出ると直ぐに取り外したものでた。スカートは廃止され、ヘチマカラーにモンペを着用、藁草履といったスタイルでした。
その頃から戦局は悪化し、学徒動員で、3,4年の上級生は大村・川棚へと軍需生産のために出動し、後で聞くところによると、銃後も第一戦も変わらぬ悲壮極まりない、正に死を賭けた青春だったそうです。2年後には私達の番でした。それでも壱岐は未だ比較的のんびりしておりました。昭和19年秋には、たまたま、B−29が初山の山中に墜落し、燃え続けました。昭和20年になると、学校の教室の半分は、軍隊の宿舎となり、運動場も分捕られて授業もなくなり、防空壕掘りや、出征兵士の家の麦刈りや稲刈り等の農作業の奉仕に、慣れない仕事に耐え抜いてきたことは今でも忘れられません。
8月15日の昼に、重大放送があるとのことで、耳をそばだてて聞いたのが、後で終戦の詔勅の玉音放送だった事を知り、誰もが必勝を信じて頑張ってきただけに、そのショックは複雑なものありました。動員で苦労なさった先輩たちも帰り、校舎の兵隊さんも去り、静かな学舎となりましたが、毎日のように島外から、戦災や引揚の友達で教室も狭くなりました。新体制化、敵国語として排斥されていた英語も、教えられなかった外国の歌も、ハニホヘトに変わっていた音階もドレミに復活し、お粗末な紙にガリバン刷りの教科書でしたが、やっと平和が訪れました。
とは言え、皆が衣食住では欠乏生活を強いられました。現在の飽食時代を誰が想像し得たでしょう。が然し、それなりに充実した4年間と受け止めております。4年生になると、髪も、スカートも許され、楽しい学園生活の2学期になって男女共学、高校2年に編入するよう薦められました。そのまま4年を終えて専門学校に進学する人、家庭の都合や結婚のために各々学窓を巣立ち、約2割の人だけ高校に編入したことを後で知りました。
私も随分悩んだ挙句、伯父をたよって洋裁学校へと進みました。縁あって壱岐に住み、一男一女の子供も各々壱岐高から大学を経て、長男の子供二人【孫】もいずれ壱岐高に進むべく、学業に勤しんで居ります。平成4年6月14日に、且っての高女(現武中)の東側の片隅に校歌を刻んだ記念碑建立の除幕式では、第一回卒の品川梅野様(現医師会長、品川晃一郎先生のご母堂様)と私(終回で26回卒)とで序幕を行い、その時の感激は良き思い出として残っております。今後益々の母校の発展を祈念して止みません。
【在校時の思い出】 高女第十五回卒 福島 トク
天地の恵みいと深く自然の胸にはぐくまるの校歌、静けき丘に聳え立つその名も清き日進寮の寮歌にはぐくまれながら、楽しかった高女四年間を追憶し感無量です。昭和八年五十八名の友達と憧れの高女に入学しました。爛漫と咲いている桜。初めて見た二階のある校舎、広いグランドは私の夢を大きくふくらませ、入学式に飾られた梅の花の校旗の美しさは今でも深く心に残ります。
この年の十二月二十三日午前六時三十九分天皇陛下がご誕生になり、日の丸の旗を振りながらお祝いの歌を歌い寮でもお赤飯を頂きました。静かに明くる夜のとばり、瑞雲こむる大八洲朝日ただ差すこの国に、今よろこびの声満ちて日嗣の皇子は生まれましぬ。忘れ得ぬ一こまです。
昭和八年にはチャイムはなく、全校すべての合図は給仕さんが鐘を振りながら知らせてくださり、寮でも相撲に使われる拍子木のカチカチと澄んだ音で一日の楽しさが過ぎました。教室は普通教室が四つ、特別教室が講堂を入れて五つ、更衣室と理科の準備室は別で一年から四年まで一学年一クラスだったのでどうにかまに合ったのでしょう。
職員室も先生方が十名だったので普通教室の半分ぐらいの広さでした。夢一杯の校舎で私は胸をはって懸命に勉強しました。忘れられないのは恩師とクラスメートの生活と毎日の勉強です。入学式は刈込先生で卒業証書は高野校長先生に頂きました。
教頭の篠崎先生に日本画と書道をご指導いただき、美しい立ち葵を書く時、木の枠に絹の布を貼り今でも忘れません。数学と理科の山川先生のいかの夜光性の実験のとき、いかが恥ずかしがったのか墨をまき散らしみんなどっと笑ったことも思い出に残るものです。
四年間担任だった乙祥先生の国語の時間には、時は暮れ行く春よりもまだ短きはなかるらん。とむづかしい言葉が毎時間出てきます。でもお父さんのような何でも話せる先生でした。小木曽先生のロングロングアゴーを歌いながら英語劇、小川先生の一文字の乱れの長刀体操、高見沢先生のお料理実習の田毎の月、どの時間も楽しいお勉強でした。
先生方の深い深い日々のご指導が自信のない私を、各教科を通して培われた教育の尊さに感謝しています。高女四年間の思い出は私の宝です。楽しかった高女の思い出は毎年五月二十日に開かれるクラス会に続いています。それはそれは楽しいクラス会です。美味しい食事をつつきながら心は三つ網の乙女にかえり楽しかった高女のこと、健康だった一年、孫のこと等々、時の立つのも忘れてお話が続きます。毎年開かれる継続の美しさは十五回生の誇りです。
私達高女卒業生の尊い思い出を永遠につなぐために、美しく流れるような深見鉄子先生の文字による平成四年建立の記念の碑は、刻まれた梅の花とともに何時までも高女卒業生の大切な心のよりどころと思います。
輝く九十周年 飛翔の母校 大いなるかな。
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