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校史

壱岐高物語・その歩み

1909年、今から90年前、壱岐高校は県立中学猶興館壱岐分校としてその輝かしい第一歩をふみだした。
1912年、猶興館壱岐分校から独立開学、1914年(大正3年)には第一回生として37名がこの学び舎を巣立ちました。
1918年(大正7年)には寄宿舎「玄海寮」落成。寮歌も誕生し、その後施設・設備の充実期を迎えます。
1922年(大正11年)には県立壱岐高等女学校も誕生。いよいよ本格的な女子教育も始まり、島内における本格的な男女中等教育の場が保障されていったのです。

昭和に入ると壱岐中や高女にも戦争の影が忍び寄ります。1943年(昭和18年)、いよいよ学徒動員により当時、高女3、4年生は大村へ動員されることになりました。
1948年(昭和23年)、壱岐中学は新たに壱岐第一高等学校として、また壱岐高等女学校は壱岐第二高等学校として改編されました。そしてさらに同年11月、両校は新制壱岐高等学校として統廃合され、新たな歩みを始めたのです。


(明治編):壱岐島明治文化史より抜粋

壱岐中学誕生秘話

壱岐郡会は県立猶興館中学壱岐分校設置の場所として、中央説と南部説が七対七で対立した。議長牧山猪七氏は香椎村(いわゆる中央説の人物)の人であったが大局的に考えて南部説をとった。明治41年(1908)9月の事であった。明治42年4月開校、分館主任として小笹憲氏が平戸中学からきて、同44年9月には独立決定し、翌45年(‘12)4月に長崎県立壱岐中学校として発足した。

明治初期の壱岐の教育実態
向学心が低い。それは民度(学ぶことへの知的好奇心)が低く、文教の目的がわかっていない。小学校の授業料は、約1円50銭。教育費は官の補助はあったけれど、一般は税として地租雑税の附加税として加税されていた。教場は寺院を借りたものも、女子の不就学の多さ、理由は牧牛と耕作でクサカイとして路傍の草生地に畜牛を引き歩いて飼う慣習があった。昼間家業のため夜学が盛んで、ほとんどの学校が夜学を開放している。

日清戦争の頃
一般国民は直接出征の体験から、少なくとも手紙を書ける程度には教育を受けなければと考えるようになり、婦女子もまた銃後から戦地への通信には事欠かないくらいまでの認識を深めるために、学校教育就学、出席に一大発展を画するに至った。

日露戦争の頃
壱岐郡の全学校を網羅する各種の研究機関ができて研究活動が活発に展開されることになった。国語研究会や低学年、中学年、高等年研究会など、従来は教師の間にも検定派(中央の教育推進派)、師範出身者(いわゆる教育畑出身者、甲種講習出身者(独学で教員資格を取った者)などの派閥があり対立があったが、これによってその弊風を一掃した。

壱岐教育王国への布石
明治の末ごろから各学校では自発的に、青年の修養向上に乗りだした。毎週一回程度の夜学会を始めた。修養に関する読書、珠算など実用的で身近な学習が主であった。各学校内で、あるいは小地域で児童作品の展示会を開催する風も盛んになった。

 歴代校長一覧
初代
梅田 勝
第11代
山口 次樹
第2代
後藤 義光
第12代
田中 重正
第3代
鴇田 忠正
第13代
山川 勝
第4代
中野 久雄

第14代

長嶺 洋
第5代
豊増 大吉郎
第15代
村川 有
第6代
平山 多馬喜
第16代
竹中 康徳
第7代
川島 亘
第17代
西 敏男
第8代
背山 誓?
第18代
中山 正路
第9代
若浦 重雄
第19代
兼俵 正行
第10代
西村 進




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